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義と愛に生きた上杉の智将 直江兼次 米沢の足跡をたどる

第1回 米沢市周辺

 米沢駅から上杉神社のある米沢城址までは、徒歩約30分。自転車なら10分ほどの距離。主要な見どころは米沢城址周辺に集まっているので、時間が許すならのんびり散策するのがおすすめ。駅の南側にある駅レンタカーと上杉記念館隣りの観光協会案内所には、レンタサイクル(1時間200円、9~17時、4月中旬~11月)も用意されている。大河ドラマの影響で主要なポイントには「天地人」の幟が立っているため、どこへ行くにも迷う心配はない。

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米沢城址周辺

上杉神社 (うえすぎじんじゃ)

 明治5年(1872)、上杉謙信・鷹山を合祀して「上杉神社」が創建(明治35年、上杉鷹山を祭神とする松岬神社が建立される)。同9年、旧米沢城奥御殿跡に社殿が建てられた。境内には謙信の「家訓十六ヶ条」の石碑が建つ。大正8年(1919)の米沢大火で類焼しほとんどの建物が焼失している。現在の建物は米沢市民の労働奉仕などにより大正12年に再建されたもの。

稽照殿 (けいしょうでん)

 上杉神社の隣にある宝物館。上杉家伝来の刀や甲冑、衣装、絵画など約300点が収蔵・展示されている。直江兼続所用と伝わる有名な「愛」の前立「金小札浅葱糸威二枚胴具足」の甲冑などが展示されている。

松岬神社 (まつがさきじんじゃ)

 本丸を囲む内堀の外側に建つ。上杉鷹山を祭神として建立された神社。大正12年(1923)には上杉景勝が合祀。昭和13年(1938)には、米沢市制施行50周年を記念し、その功績を讃えて直江兼続も祀られている。

伝国の杜(米沢市上杉博物館)
(でんこくのもり)

 移動能舞台のある県立置賜文化ホールと米沢市上杉博物館のある文化施設。博物館には上杉家関連の国宝文書や甲冑、絵画などを展示している。また、肖像画や文書など直江兼続関連の資料も多数収蔵している。もっとも有名な収蔵物では、織田信長が上杉謙信に贈った国宝「上杉本洛中洛外図屏風」や国宝「上杉家文書」などがある。

上杉伯爵邸(上杉記念館)
(うえすぎはくしゃくてい)

直江屋敷跡
(なおえやしきあと)

 明治29年(1896)、元米沢城二の丸跡に上杉家14代茂憲(もちのり)伯爵の邸宅として建てられた(大正8年に米沢大火で焼失し、同14年に再建)。1996年(平成8)に国の登録有形文化財に指定されており、広い日本庭園を散策することもできる。館内の食事処では、米沢の郷土料理や米沢牛などが味わえるほか、抹茶などが楽しめる和カフェ「茶房」もある。

 伝国の杜の南側角に標識のみが建つ。住所表示は城南1丁目1番地。直江兼続は米沢城内に広大な屋敷を持っていたといわれている。慶長3年(1598)上杉家が米沢に減封された際、旧花岡町から南堀端町にかけてのこの場所に居を構えた。明治維新後に地番を付ける際、直江屋敷のあった場所を1番にしたという。

米沢城址(松が岬公園)
(よねざわじょうし)

 上杉景勝が越後から会津120万石に転封された時、直江兼続に与えられたのが米沢城。
 関ヶ原の戦いで敗れた景勝は、米沢30万石に減封され、兼続に代わって城主になる。その後、明治2年の版籍奉還まで272年間、歴代上杉家の居城となった。明治6年(1873)に城が取り壊され、松が岬公園となり、桜の名所として知られている。

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米沢市内

宮坂考古館 (みやさかこうこかん)

 刀剣、槍、屏風、火縄銃ほか、旧米沢藩に関する品や郷土ゆかりの文化財を収蔵・展示。数多く揃う直江兼続が製造させた火縄銃をはじめ、謙信や兼続の所用と伝わる甲冑や武具など貴重な資料も多数展示している。前田慶次が愛用したといわれる甲冑「朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足」はファン必見のもの。

   

林泉寺 (りんせんじ)

 上杉家の菩提寺で、もとは越後春日山にあった。慶長6年(1601)、上杉景勝の米沢30万石減封により、林泉寺も米沢に移される。境内には景勝の正室・菊姫(武田信玄の娘)をはじめ、歴代藩主の妻子や一族の墓所がある。ここには直江兼続夫妻の墓もあるほか、兼続逝去時の位牌も祀られている。

コラム「米沢の墓(万年塔)」

法泉寺 (ほうせんじ)

 直江兼続が元和4年(1618)に創建した寺で、当初は禅林寺と称した。寺内に藩士の子弟を教育するための学問所「禅林文庫」を創設。兼続が収集した禅林文庫の蔵書は現在でも貴重な文化財として残されている。法泉寺は三の丸北西に位置し、寺の東側を流れる堀立川は、有事の際には数か所を堰き止め米沢城の外堀となるように造られていた。

 総面積は2ヘクタールという広大な敷地。樹齢400年を超す老杉もある林の中にあり、厳粛な雰囲気が漂う。当初は謙信の遺骸の避難所として定められた場所だったが、上杉景勝が亡くなった元和9年(1623)より上杉家の廟所となり、歴代藩主が埋葬されてきた。正面に謙信の廟屋、その両側に12代までの藩主の廟屋が並ぶ。8代までは入母屋(いりもや)造り、9代からは宝形(ほうぎょう)造りと建て方に変化がある。

上杉家廟所 (うえすぎけびょうしょ)

コラム「軍旗(懸り乱れ龍の旗)」
   

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米沢市周辺

武家屋敷 (ぶけやしき)

 会津から移封された際、城下には家臣をすべて配しきれなかったため、原方衆(はらがたしゅう)と呼ばれた下級武士は郊外に配置された。原方衆は半士半農の生活を送り、新田の開墾なども行った。こうした下級武士が暮らした屋敷が米沢市の南部、芳泉町・石垣町などに残されている。川の氾濫から守るための石垣や食糧にもなるウコギの垣根などが特徴的だ。

龍師火帝の碑 (りょうしかていのひ)

 米沢市を流れる松川の源流に建つ。直江兼続によって洪水や干ばつから町を守るようにと願って建てられたもの。龍師=水の神、火帝=火の神の文字が、高さ約1.5m、幅約2.9mの安山岩の自然石に彫られている。

直江石堤
(なおえせきてい)

 城下を洪水から守るため直江兼続の指揮の下、原方衆が中心となって築いた石積みの堤防。現在でも野面積みの堤防が1.2kmにわたって残されており、付近は「直江堤公園」として整備され市民の憩いの場となっている。

鉄砲鍛造遺跡の碑
(てっぽうたんぞういせきのひ)

 慶長9年(1604)、兼続は近江国の国友と和泉国の堺から鉄砲鍛冶を招き、白布高湯(現在の白布温泉)に鍛冶工場を造り、山深い白布の地で秘密裏に鉄砲を造らせ戦時に備えていた。製造された鉄砲は1000挺にのぼるといわれ、白布温泉のバス停付近に「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑がある。

十三峠
(じゅうさんとうげ)

 越後米沢街道は500年ほど前に羽越国境の大里峠が開かれたのが始まり。その後、次々に整備され、街道沿いに13の峠があったことからこの名が残る。この街道の宿駅、伝馬制度は兼続によって整備されたといわれる。明治11年(1878)には、イギリスの旅行家イザベラ・バードがこの道を通り「日本奥地紀行」に当時の様子を著している。