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義と愛に生きた上杉の智将 直江兼続 米沢の足跡をたどる

第2回 山形市・置賜・酒田市周辺

  山形市周辺には、直江兼続ゆかりの地が多く点在する。必ず訪れておきたい場所は、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いと時を同じくして争われた「長谷堂合戦」の舞台。田園風景に囲まれた長谷堂城址までは、山形駅から車で15分ほどの距離だ。このほか山形市内には、相手方・最上義光の居城であった山形城址(霞城公園)、最上義光歴史館などがある。どちらも駅から徒歩約10分と、歩いて巡るのに手頃な距離だ。また、米沢市の北側、置賜地域にもゆかりの地が多く、上山温泉、赤湯温泉などの温泉地をベースに、のんびり兼続巡りを楽しむのも悪くない。

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山形市周辺

霞城公園(山形城址) (かじょうこうえん)

 延文元年(1356)、羽州探題として山形に入った最上氏の祖・斯波兼頼(しばかねより)が、延文2年に築城したと伝えられている。兼頼の子孫はその後、最上氏を称して居城。現在の城郭は11代当主・最上義光が築いたものが原型となっている。本丸、二の丸、三の丸の堀や石垣、土塁を有する広大な輪郭式の平城で、全国でも有数の規模を誇り、国の史跡に指定されている。現在は本丸と二の丸跡が霞城公園として残されている。
 

最上義光歴史館 (もがみよしあきれきしかん)

 山形市の礎を築いたといわれる最上義光と山形城の資料を収蔵している。長谷堂合戦図屏風のほか、義光が長谷堂合戦の際に身に付けていた弾痕が残る兜や甲冑、指揮棒などの遺品、山形城本丸の襖絵など、絵画や調度品を多数展示している。

長谷堂城址 (はせどうじょうし)

 慶長5年9月、周辺の支城を次々と落とした直江兼続は、2万の大軍を率いて城を包囲。これに対して長谷堂城には最上家の将・志村光安が1000名あまり(5000との説もあり)の将兵とともに籠城。9月29日の夜半、関ヶ原での西軍(石田光成軍)の敗報を受けて上杉軍は撤退することとなった。長谷堂城は標高約230mの山城で、5ヶ所の登り口があり、山頂までは約20分ほど。頂上の本丸跡は小公園になっており、山形盆地を一望できる。

   

畑谷城址 (はたやじょうし)

 山形の西方に位置する山形城の支城、上杉の領地であった置賜地方から、山形に抜ける狐越街道沿いにあった山城。兼続率いる上杉軍2万が長谷堂城を攻める途中に落城させた。城を守る江口光清は300~500名ばかりの少数で迎え撃ったが、圧倒的多数の上杉軍があっという間に攻め落とした。

上山城 (かみのやまじょう)

 最上氏領の最南端を守る城塞。月岡・天神森の地にあったため月岡城とも呼ばれた。兼続との戦では、城を守っていた里見民部の奇襲で勝利を収めている。元禄5年(1692)、幕命により取り壊されてしまい、現在の建物は昭和になって再建されたもの。

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置賜エリア

熊野大社 (くまのたいしゃ)

 大同元年(806)、平城天皇の勅命により、再建されたと伝わる歴史ある神社。日本三熊野のひとつに数えられ、東北のお伊勢様として古くから近隣の信仰を集めている。米沢城の東北にあたる鬼門の鎮守としても大切にされた。慶長9年(1604)の御宮建立棟札に「大旦那 直江山城守」の記録が残されている。

總宮神社 (そうみやじんじゃ)

 創建は約1200年前と伝わる由緒ある神社。文禄2年(1593)、米沢藩主・蒲生郷安が長井郷の44ヶ村の神社を合祀して総鎮守としたため「總宮神社」と呼ばれるようになった。御神木は米沢城に直江兼続が入る際に、この社を訪れて杉の木を植えたものといわれている。

朝日軍道 (あさひぐんどう)

亀岡文殊堂 (かめおかもんじゅどう)


 米沢を預かるようになった直江兼続が、置賜地方と飛び地になっていた領地の庄内地方を結ぶ道として開削した軍道。長井市の草岡から朝日連峰の標高1600~1800m級の峰々を尾根伝いに抜け、鶴岡市に達する約60kmに及ぶ山岳ルート。

 大同2年(807)に東北地方布教のため、この地を訪れた徳一上人が堂宇を建立したのが始まりと伝えられている。丹後・切戸の文殊(京都府)、大和・阿倍の文殊(奈良県)とともに日本三文殊のひとつに数えられる。慶長7年(1602)に兼続が、実弟の大国実頼や前田慶次らの武将たちを集めて歌会を催しており、その時の漢詩や和歌「亀岡文殊堂奉納詩歌百首」が寺宝として秘蔵されている。

安久津八幡 (あくつはちまん)

 貞観2年(860)に慈覚大師の阿弥陀堂建立が始まりとされる神社。慶長3年(1598)に直江兼続が神領50石を寄進し、衰退していた八幡神社の再建に協力。元和3年(1630)にも上杉景勝、兼続が拝殿を造営している。

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酒田市周辺

酒田城址(亀ヶ崎城址)
(さかたじょうし)

 庄内を領地としていた武藤氏が、文明10年(1478)に築城した東禅寺城が始まり。出羽合戦の功労で、それまで上杉領であった庄内地方は最上義光に与えられ、義光は57万石の大名となった。現在、酒田城址は酒田東高校の敷地となっており、学校の脇に高さ3mほどの土塁を残すのみとなっている。

鮭延城址 (さけのべじょうし)

 JR真室川駅から車で7~8分の場所にある。小高い丘の山頂に城郭を築き、周囲に濠や柵を構えた難攻不落の城といわれた。城を預かる鮭延秀綱は、長谷堂城の合戦で獅子奮戦の大活躍をし、直江兼続から「信玄、謙信にも覚えなし」といわれた名将だ。城は江戸時代に廃城になり、丘の上に大手門跡と石碑が残されているのみ。