THE WAR MOVIE セレクション

映画好きの編集者がリレー形式で、戦史を題材にした映画をご紹介するという、雑誌『歴史群像』の名物コーナー。記念すべき第1回は、2000年7月発売の「夏-秋号(No.43)」に掲載されました。

【第26回】 『メンフィス・ベル』(1990・アメリカ)

作品名:メンフィス・ベル
発売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
価格:DVD ¥1,500(税込)
絶賛発売中!

 1943年、ヨーロッパのドイツ勢力地域に対する昼間戦略爆撃を行っていた米第8空軍に、24回もの出撃を無事やり遂げていたB-17爆撃機10名のクルーがいた。25回の爆撃任務を完遂すれば帰国できるという制度の下、国に帰ることを夢見るクルーたちの最後の任務は、今までよりも敵の抵抗が激烈なドイツ本土の爆撃だった。襲いかかる敵戦闘機の攻撃や高射砲の弾幕でボロボロになりながらも、クルーたちは生き残るために戦う……。
 実話に基づいた映画『メンフィス・ベル』は、感動の青春映画として今も評価が高いが、この映画を面白くしている要因の1つは、なんと言っても10名の搭乗員の人物描写のきめ細かさと多彩さだろう。迷信深く、お守りをなくして大騒ぎする者、ケンカっ早い者、実直すぎて他のクルーから少し煙たがられている機長(操縦士)など、登場人物たちの個性が豊かに描かれている。
 例えば、出撃延期で地上待機中に、もう一度機体チェックを副操縦士に命じて辟易されるほど任務にまじめな機長デニス(マシュー・モディンが好演)に関して、こんなシーンがある。目標に向かう上空で将来のことについて冗談を交わし合うクルーたちに、デニスが「帰国したらオレの実家が家具製造業をやってるからこいよ」と冗談めかして言う。一瞬、黙り込んだクルーたちがすぐに、「帰国しても命令されるのか?」「チェック、チェック、チェック」などと茶化し、これを聞いたデニスが「みんな、キツイな」と真剣に落ち込む。ここでは、チームにおけるデニスの立ち位置がわかる作りになっているのだ。
 一歩間違えると兵隊によるただの仕官いじめになってしまうのだが、多彩な個性を持つチームの雰囲気を壊さない、明るい展開となっているし、最後に生真面目なデニスが基地に帰ったときに、喜びを爆発させるシーンを盛り上げる伏線にもなっている。ここで観客はいつしかクルーの一員になって、帰還の喜びを分かち合っているのだ。
 そしてこれらのキャラクターを生かし、観客に感情移入させる仕掛けの1つが爆撃機と言う閉鎖空間だ。爆撃機であるB-17は、戦闘機などとは違って一定の広さの空間があり、そこに部署された各員の姿が精密に描かれる結果となっている。基本的に、飛び立ったあとメンフィス・ベル号の機内と外の風景しかなく(途中、1、2シーンほど基地司令官らが出てくるのみ)、襲ってくるドイツ戦闘機パイロットの姿も見せなければ、編隊を組んでいる僚機のクルーも無線の音声のみで、姿を映さない徹底ぶりだ。
 撃墜された僚機のクルーたちの具体的な姿を映さず、悲鳴だけが無線機から流れ、それが雑音に途切れながらフェードアウトしていく。それを聞いたメンフィス・ベルのクルーの悲壮な表情。つまり観客は、敵の僚機のクルーたちの顔まで見ることができる「神の目」ではなく、あくまでもメンフィス・ベル号という「爆撃機クルーの目」しか与えられておらず、これが登場人物と感情を共有することにつながっているのだ。
 閉鎖空間におけるきめ細かい人物描写と物語の展開。何か思い当たりませんか? そう、実は「潜水艦映画」もそうなのだ。艦内各区域が狭く密閉空間なため人物描写も濃密だが、同時にこうした「潜水艦映画」も、乗組員の生への渇望を描いたものが多い。
 爆撃機という閉鎖空間を舞台として、生きる努力をする人間がきめ細かく描いた『メンフィス・ベル』は、戦争を題材にした、上質の「密室劇」なのかもしれない。

(文=バイオ大森)

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【第25回】 『ヒトラー~最期の12日間~』(2005・ドイツ)

 2005年に公開された本作品、主人公であるヒトラーの女性秘書ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)を狂言回しに、ヒトラーと第三帝国首脳部の最期の日々を描いた群像劇である。
 この作品を簡単に述べると、「明るい闇」とも表現すべき幻想的な重苦しさと、ちょっと不親切な脚本と演出、といった印象である。
「不親切」というのは、大状況が見えない、今どのような状況にドイツが置かれているのかがわからない、またキャラクターがどういう立場の人物なのか、一見してわからない、ということだ。なにしろ、作中のヒトラーは、追い詰められて取り乱す―ややエキセントリックな―初老の人物にしか見えない。
 昨今の映画やTVドラマが、分かり易さを優先しているのとは対極にあるといえる。
 また「幻想的」というのは、この作品が、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツの迫真の演技を筆頭に、大戦末期のドイツ軍の軍装や、党、ヒトラーユーゲントの制服、または戦闘シーンなど「リアリズム」を追求しているのと反対の評価ではある(ちなみに似せやすいヒムラーはともかく、フェーゲラインやギンシェ、シュペーアがよく似ている)。
 このように書くと本作は、監督の意図に反した、なにか失敗作のように思われてしまうが、無論そうではない。いまだ、個々の場面が脳裏に浮かぶほどの傑作なのである。
 多くの研究者が述べてきたように、ナチズムがドイツを支配した理由に、第一次大戦の敗戦とベルサイユ体制下の疲弊したドイツ人にナチスが甘い幻想を抱かせたことがある。無論ナチス首脳部自らもその幻想に浸っていた。
 こうした研究を踏まえて見れば、大状況が見えない不親切さは、密室である総統官邸地下壕という舞台装置と相まって、現実を直視できない(しない)ということを描くための有効な演出方法といえる。そしてこの手法で、第三帝国のデッド・エンドを幻想的に描くことは、ナチズムのある種の本質を描くことであり、本当の意味でのリアリズムであろう。
 筆者にとって印象的だったのが、ヒトラーユーゲント高射砲隊員の死や、ゲッベルス夫妻の自殺のシーン。カメラはその瞬間からフッと目をそらす。「人間、見たくないものは、どのような状況でも見ない」という、まさに人間の本質の一つを衝いた描写だといえる。
 こうして映画は、ひたすら重苦しくリアルな幻想の中で、破滅へと突き進むのだが、エンターテインメントらしく最後には、カタルシスもある。それが戦闘終結直後に主人公が見上げる、5月の透き通るような青空である。だが、それでさえ、当時のある種の心証風景の巧みな描写であり、シュペーアが戦後回想したヒトラーのカリスマの呪縛から逃れられた瞬間と照応する。
 映画にとって必要なことは、分かり易い説明をすることでも、巨大なセットを造ることでも、スプラッタじみた「リアル」な描写をすることでもない。人間の本質を映像で描くことなのである。

(文=R・Vヒグチェンブルグ)

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