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戦国に生きた人物と近現代のヒーローを比較検討し、新たな価値観を構築する暴走コラム!

初仕事は「オニ」でした。

 池田恒興 いけだ つねおき

1536~1584

 摂津の名族池田氏との関係は詳らかではない。尾張の武将で幼年から信長に仕えた、ということは初仕事は信長の遊び相手であろう。巷間に彼の有能・無能・悪評を伝える史料が存在しないことから見ても、毒にも薬にもならない好人物であったと推測される。49歳で没したにもかかわらずやけに老けた肖像画しか伝わっておらず、ネームバリューの割には影の薄い武将。自身は長久手の合戦で戦死するが、子孫は屈指の大名家として存続した。

激似戦国武将論 信長の独断 クラシックス・プラス

【その10】

池田恒興と
色鉛筆の白

20年モノ(実話)

色鉛筆の白 いろえんぴつのしろ

 どう紹介したらよいか全くお手上げ状態なのだが(苦笑)、貴方が思い浮かべているモノで恐らく間違いはない。念のため、ここで取り上げる色鉛筆とは、写真用のダーマトグラフィーやチャコペンシル、或いはサクラクーピーペンシルといった、特殊な用途に使うものや独特な構造で出来ているものではなく、図工の授業で使った記憶のあるきわめて一般的な色鉛筆を指す。これのどこが近現代のヒーローだ? と気付いたアナタはエライ、がヤな奴だ。

国のイケダさんご免なさい。ホラ、同姓びいきってのがあるでしょ。「誰とでも仲良く、八方美人」のコアラ(動物占い)のワタクシとしましては、気配りから始めませんとね。
 …ナニ古い? しょーがねーじゃん原稿が古いんだからよ。オチもコレなんだよ。
 数ある信長家臣の中でも、ノブナガサン(カタカナ表記の場合は通常オレ様のほう)の心をガッチリ掴んで離さない、離さないままブラブラ垂れ下がった状態をキープし続けてるのがこの男・池田恒興。何をしたのかサッパリ解らない………………いや違う、解る。恒興が何をしたかは解る。史料も残っているし、内容も信頼出来る。解らないのは、そんな平々凡々な仕事っぷりで、何故あの地位たり得たかという、まさにその一点。
 彼は信長の乳兄弟であった。家族、特に母親と疎遠であった信長は、乳母であった養徳院(恒興母)を後々まで実の母の如く扱っている。尾張一国から天下を目指す信長の「持ちゴマ不足」という懐事情を察すれば、恒興との縁はリライアビリティに於いて他の武将より上回っていたであろう。だから恒興が「プチ織田政権期」に信長の信を得ていたことは納得出来る。
 しかしその後恒興は、大きな過怠も失策も無いかわりに特筆すべき功名も挙げず、故に大きな出世もしていない。ところが信長の覚えは一貫して目出度く、佐久間信盛への叱責状の中で「恒興を見習え」とまで評されていたりする。織田家の所帯が大きくなり、特色ある家臣が如何に増えようとも、この男のポジションは常に確保されていたのである。
 昔から気になっていることと言えば、もうひとつコレ。色鉛筆の白。絵の具なら解る。どの色にも混色出来、微妙な色あいを作り出せる、主役にはなりにくいが重要な存在だ。だから白のチューブだけデカくて、それでも真っ先に使い切ってしまったりする。クレヨンは混ぜられないが、色紙に塗れるという強みがある。
 でもね、色鉛筆ってどうよ? 混ぜられないし、硬いので描ける所もない。アレ必要なの? なのに、12色であっても72色であっても、色鉛筆のセットには必ず入っているのは何で? 同様の疑問を、清洲会議に出席した柴田・丹羽両名も持ったのではなかろうか。
「何で池田がここにいるワケ?」
 恒興と池田家は織田政権のみならず、秀吉の世を経て徳川の治世になってさえ、有力者のイスを守り続けた。槍一本で成り上がったわけでもなければ突出した政治手腕に見せ場を残したわけでもない。策も弄した記録もなければ立ち周りに気を配った様子もなく生き残った希有な武将なのである。使い道が無かったのですり減ることも無く、新品同様の存在感とポテンシャルを有していたから──なのかもしれない。
 てな具合にイヤミたっぷりにシメようとしたら友人に意義を唱えられた。「白を使いこなすのが色鉛筆のポイント」だそうだ。ふーんそうなの……(コアラはフォローも忘れない)。
 じゃあ恒興にも、凡人には使いこなせない価値があったのかもしれないね! まぁ確かに…ウツケとかタワケって、凡人でないコトだけは確かだし。

【その10】初出/歴史群像Vol.42(2000年春-夏号)

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