サイト内検索
“生麦事件”に魅せられた半生――元「生麦事件参考館」館長・淺海武夫さん
資料館巡りや地元の方が語る歴史に耳を傾けるのも歴史旅の醍醐味。今回は生麦事件の貴重な史資料が収蔵する「生麦事件参考館」が閉館するとのことで、このコーナーでは、同館長で地元在住の研究家・淺海武夫さんに伺ったお話と、生麦事件の解明に捧げた40年近くの研究人生について紹介します。

近代日本の幕開け“生麦事件”

自宅を改装して開いた「生麦事件参考館」。
残念ながら2013年の6月末で閉館してしまったが、連日、多くの見学者が訪れた。

 今からおよそ1世紀半前の、文久2年(1862)8月21日に発生した生麦事件。歴史教科書には必ず記述がある「重大事件」だが、みなさんはこの事件についてどのくらい御存じだろうか。
 生麦事件とは東海道沿いの武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、馬上のイギリス人4人が薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列に「乱入」し、供回りの薩摩藩士がこれを殺傷した事件である。
 その後、薩摩藩は事件の処理を巡り、賠償金と犯人の処罰を要求するイギリスと戦闘になり(薩英戦争)、彼我の軍事力の差を再認識させられるが、結果としてイギリスとの友好関係を深めて近代化に邁進、維新の中心となっていく。
 事件の現場となった横浜市鶴見区生麦で、生麦事件の背景や歴史的な意義を後世に伝え続ける淺海武夫(あさうみたけお)さん(83)は「生麦事件は歴史を変えた大きな事件。ここから日本の近代化が始まったことを知ってほしい」と話す。

史資料収集にあけくれる日々

「生麦事件参考館」で事件について説明してくださる淺海さん。聞き手を飽きさせないユーモア溢れる語り口も魅力。

 淺海さんは地元生麦の生まれで、京浜急行・生麦駅のほど近く、旧東海道沿いで大正時代から続く酒屋を経営していた。そんな淺海さんが生麦事件の研究に没頭する転機となったのは46歳の時。事件の現場を訪ねてきた鹿児島の方に記念碑の場所を教えたところ、後日もらった手紙に、「なぜ資料が見られる場所が地元の生麦にないのか」と指摘された。地元の生まれながら、事件の詳細について知らないままでいたことに衝撃を受けた淺海さんは、以来、事件の研究に没頭していく。
 休日は東京・神田の古書店を訪ね歩いて国内外の関連書籍を手当たり次第に求めたが、実は淺海さんが研究を始めたころは、始めたころは、生麦事件はその性質上、薩摩藩が厳重な緘口令を敷いたこともあって、当日の様子はほとんど残されていないだろうと考えられていた。「歴史学の分野でも注目されずほとんど研究が進んでいなかった」と淺海さんは言う。そのため次第に、みずから事件や当時の生麦村・東海道に関連する史資料の収集に奔走するようになった。
 旅先の盛岡の古書店では偶然、事件を伝える貴重な錦絵を見つけた。また事件を伝える当時の新聞もイギリスから取り寄せ、日本研究が盛んなオランダ・ライデン大学の博物館に事件現場付近を撮影した写真があると聞けば、自らタイプライターで手紙を認(したた)めて複写を申請した。
 こうしてさまざまに手を尽くして集めた史資料はなんと1千点に上る。事件で死亡した貿易商リチャードソンの遺体写真や、神奈川奉行所が生麦村の村民に事件の聞き取りを行った際の陳述記録など、いずれも貴重で史料的価値の高いものばかりである。

明らかにされた “新事実”と「生麦事件参考館」設立

リチャードソンが落命した現場に建てられていた事件碑(横浜市登録文化財)。現在、高速道路工事が行われているため付近に仮移転中。事件の起きた8月21日には、毎年ここで慰霊祭が行われる。

 こうして収集した史料の解読から、それまで明らかでなかった事件当日の様子も分かってきた。上海在住のリチャードソンたちはイギリスへの帰途で日本見物を楽しんでいたこと、たまたま横浜行きの便の出航が1週間遅れたために事件に遭難したということ、また当日彼らが川崎大師見物に向っていたことなどである。また薩摩藩の行列一行が事件直後、神奈川宿の本陣に寄らずに保土ヶ谷宿へ直行したことなど、知られざる事件の背景や裏側が明らかとなった。
 そして生麦事件研究に魅せられた淺海さんは、研究一筋の生活を送るため、とうとう64歳の時に酒店の経営から引退、早稲田大学で約10年、近代史を学び直した。また自宅の一部を改築して私設の資料館「生麦事件参考館」を設立してしまう。惜しくも当館は今年(2013年)の6月いっぱいで閉館となったが、貴重な史資料と、淺海さんの軽妙な語り口と真に迫る解説を目当てに来館者は月あたり約300人を数えたという。所蔵されていた貴重な史資料は、未定だが、横浜市の公共施設などへの寄贈と展示の話が進んでいる。

専門家顔負けの探究心、そして歴史を学ぶとは

疑問がわくと徹底的に調べ上げなければ気がすまないという淺海さん。80を過ぎて、研究意欲を失わない元気な姿には脱帽である。

 こうして、研究をはじめてから40年近く、淺海さんは生麦事件研究の第一人者として専門の歴史研究者も教えを乞うほどになる。歴史作家の吉村昭氏も生麦事件の取材のため、淺海さんを訪ねた。
 淺海さんは現在では、大学など全国各地で事件に関する講演を精力的に行っている。そして今回の取材で特に印象的だったのは、その専門家顔負けの研究姿勢である。
 昭和初めに刊行された自治体史である『鶴見町史』(現・横浜市鶴見区)のなかに、明治初期に生麦村近くの茶屋に英語を話せる女性がいたとの記述があったが、残念ながらその記述の根拠となる史料は示されていなかった。
 「疑問がわくと、満足いくまで徹底的に調べ上げなければ気がすまないんです。」と淺海さんは言う。
 その女性が実在した史料的裏付けを確かめたくなった淺海さんは、方々に手を尽くし、幕末に来日したフランス人が著した紀行文の存在を知り、フランスから取り寄せる。そしてそのフランス語の原文のなかから「鶴見の茶屋に外国人から『スペイン美人』スーザンとあだ名されていた女性」がいたとの記述を見つけ出し、その女性の実在を立証した。まさに生麦事件研究の第一人者の面目躍如である。
 淺海さんの口から語られる生麦事件はユーモア溢れる語り口ながらも、その情景が、まざまざと甦るようで事件の歴史的意義を理解させてくれた。また一方で「歴史を学ぶ」ことの愉しさを改めて感じさせてくれる。「歴史を知る」ことが我々の人生をいかに豊かにするか、考えさせられたひと時であった。

(文=編集部・2013年6月12日取材)