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「城下町探訪」 静岡―戦乱の世を完全終結するために築かれた城下町

Ⅱ 町の見どころ

薩摩土手   徳川家康ゆかりの寺社   街の遺構
 
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薩摩土手

 近世に至るまでの駿府は、北から賤機山西麓に沿って流下する安倍川が、勾配の緩くなる南麓から幾筋もの流路に分かれて駿河湾へと注いでいたため、現在の静岡市の中心市街地は大半が低湿地となっていた。そこで家康が大御所として入府する際にまず行ったのが、分流する手前に堤を築いて安倍川を西に流れる藁科川と合流させて海に流すという大規模な土木工事であった。それによって駿府に広大な城下町を建設するだけの、洪水の危険を免れた広い平坦地を確保することができたのである。なお実際の工事は、手伝普請(天下普請)を命じられた薩摩藩によって行われており、築かれた堤は“薩摩土手”と呼ばれ、その一部は今日も残っている。

静岡市葵区井宮町の妙見下から同水道町付近の住宅地に、かつての堤の跡を確認できる。

薩摩藩による手伝普請(天下普請)を伝える「薩摩土手之碑」。


舞殿越しに望む神部神社・浅間神社の大拝殿。「浅間造」と呼ばれる二階建ての独特建築様式。ちなみに家康の寄進で営まれた富士宮市の富士山本宮浅間神社は、本殿が浅間造になっている。


 

大歳御祖神社拝殿。文化年間以降の造営では、寛永11年(1635)に3代将軍・家光によって大改修された姿をもとに復元されているため、社殿はすべて豪壮華麗。

徳川家康ゆかりの寺社

●静岡浅間神社
古来より駿河国総社として信仰を集めてきた神部神社(かんべじんじゃ)、10世紀に冨士新宮として勧請された浅間神社(あさまじんじゃ)、そして太古に開かれた当地の市の守護神である静岡市の地主神を祀る大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)の三社を総称して静岡浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼ぶ。人質時代から大御所時代まで、家康の当社への尊崇は篤く、社宝には元服の際に家康が身に付けたと伝わる“着初めの腹巻”をはじめ、徳川家ゆかりの品を多数収蔵する。なお現在の社殿は、町方の出火で類焼したあとに徳川幕府直営工事として文化元年(1804)から60余年かけて造営されたものである。

●臨済寺
 臨済宗妙心寺派の古刹。人質時代の家康(竹千代)が太原雪斎が学問を教わったという“竹千代手習いの間”が残るが、実際の竹千代時代の臨済寺は今川、武田、織田・徳川の戦で焼失しており、現在の伽藍は家康が戦国大名として当地を領有した時代に再建したもの。
 

臨済寺方丈(本堂)。寺内には、修行寺らしい静謐で凛とした空気が張り詰める。

臨済寺山門。明治の神仏分離の際、静岡浅間神社から移された仁王像が安置されている。山号「大龍山」の扁額は、明治時代になって当地に隠居した徳川慶喜の揮毫。
 

●華陽院
岡崎から竹千代と一緒に駿府に来た祖母・源応尼(家康生母・於大の方の母)が葬られている。人質時代の家康は、この付近に住んでいたとも伝えられる。

華陽院本堂。竹千代は、ここの智短和尚に文筆を学んだとも言われている。

源応尼の墓所。隣には、7歳で没した家康公の五女・市姫の墓もある。 

●瑞龍寺
賤機山西麓の曹洞宗寺院。家康の2番目の正室となった、豊臣秀吉の異父妹・旭姫の供養塔がある。
 

(上)往時は豊臣、徳川両家からの寄進を受け栄えた。
(右)旭姫の供養塔は、一般の檀家の墓地の間に佇む。 

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●蓮永寺
現在の富士市富士川町にあった日蓮上人創建の芳樹院を、側室で十男・頼宣(のちの紀州藩主)、十一男・頼房(後の水戸藩主)の生母であるお万の方の願いにより、家康が駿府城の鬼門に移し、蓮永寺と改名。お万の方の供養塔が建つ。

蓮永寺。家康薨去ののち、お万の方は剃髪して養珠院と号し、この寺に籠もってその菩提を弔った。

お万の方の供養塔。同墓地には明治維新後に江戸から移ってきた勝海舟の母と妹も葬られている。
 

●宝台院
家康の側室で2代将軍・秀忠の生母である西郷の局が葬られている。また同寺は、慶応4年(1868)から徳川慶喜が静岡(駿府)での謹慎生活を始めた場所としても知られる。
写真は西郷の局の供養塔。 

●久能山東照宮
元和2年(1616)、薨去した家康は、その遺言に基づき久能山に葬られた。静岡市の南部、駿河湾に面して屹立する久能山は、戦国時代の軍事的な要衝であった。元来、平安時代からこの山には補陀洛山久能寺という寺院があったが、当地に侵攻した武田信玄が寺を移し(現在の鉄舟寺)、戦の拠点として久能城を築いた。当地の東照宮は、家康埋葬直後に2代将軍・秀忠が久能城を廃して造営したもので、家康の御霊(神号は東照権大現)を祀る日本国中に数ある東照宮の原型となった神社である。 


(上)・(右)平成の大修理によって、400年前の創建時の輝きを取り戻した拝殿。奥の本殿と拝殿を“石の間”という一段低い部屋でつなぐ、権現造と呼ばれる建築様式はここが発祥。

(上)駿河湾側の根古屋地区から見上げる久能山。周囲は名産の石垣イチゴの産地。

(左)社殿の裏に建つ家康廟の宝塔。久能山の麓から、ここまで1159段の石段が続く。

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●札之辻址
現在は七間町通りと呉服町通りの交差点に碑だけが残る。旅人はここに掲げられた高札ともに、駿府城の天守を仰ぎ見たことだろう。今日も静岡市きっての繁華街であることに変わりはない。

街の遺構

●金座稲荷
駿河小判の名で知られるように、家康は慶長11年(1606)、金座を開設して後藤庄三郎に命じて駿府で小判を鋳造させた。その庄三郎が金座の守護神として祀ったのが金座稲荷で現在、鋳造所の跡には日本銀行静岡支店が建つ。金座稲荷は、そこから呉服町通りを西に100mほど。

●浮月楼
徳川慶喜屋敷跡。明治2年(1869)、それまで宝台院で謹慎生活を送っていた徳川慶喜が、元は代官屋敷だったこの場所に移り住み、以降20年間隠居生活を送ったことで知られる。現在は静岡市を代表する料亭となっている。

浮月楼庭園。慶喜時代の建物は、大火や戦災を経て残っていないが、庭園は往時の面影を残すという。一般には公開されていないが、浮月楼で食事をするお客さんは見学することができる。静岡駅至近の中心市街地にありながら、その静けさには驚かされる。もっとも、慶喜が新たに西草深に邸宅を構えて引っ越した理由は、駅が近く列車の音がうるさいからだったと伝えられる。


マップ&駿府城データ    Ⅰ 城郭の見どころ    Ⅲ 町角情報