サイト内検索

「城下町探訪」 水戸―藩主不在が当たり前の城下町

Ⅱ 町の見どころ②

東日本大震災の被害が出ている場所があります。
公開状況をご確認の上、ご訪問ください。

偕楽園  水戸・幕末悲劇のモニュメント  水戸黄門神社  備前堀  吉田神社  東照宮  水戸八幡宮

※「Information」マークのついてる写真はクリックすると、詳細情報がご覧になれます。

偕楽園

優れた人材の育成には孔子の言葉にある「一張一弛」が肝要と、文武修行(=張)の場である弘道館と対をなす、修行の合間に心身安息(=弛)の場として斉昭が造園。藩士のみならず庶民にも開放され親しまれた。

(上)100種3,000本が咲き誇る園内の梅林は壮観。(写真協力:水戸市、『桜田門外ノ変』映画化支援の会)

●好文亭
(右)園内の休憩施設として設けられた木造二層三階の建物。梅の異名・好文木にちなんで命名。斉昭自らが設計したと伝えられ、随所にそのセンスが光る創意工夫が見られる。斉昭時代の建物は空襲で焼失、昭和30年に復元されたのが現在の建物。

TOP    BACK

水戸・幕末悲劇のモニュメント

光圀時代からの伝統、斉昭の文教政策により育まれた先進的な水戸の学問は、幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与え、時代を大きく前に推し進めることに寄与したが、その陰で多くの悲劇や犠牲が生まれたことも忘れられない。

●常磐共有墓地
光圀の行った数ある藩政改革の1つに、領内の寺社の改廃が挙げられる。儒教を重視する光圀は、堕落した宗教界にメスを入れ、寺院の破却や破戒僧の還俗を断行。加えて各家によってまちまちだった喪祭についても、儒式を取り入れた簡素な礼式を広め華美にならないように戒め、さらに藩士のための共有墓地を造成したのだった。他の城下町では大抵見られる寺町が、水戸では見られないことの一因はこうしたところにあると考えられる。
 ここ常磐共有墓地は、城郭の西側・上市に住む藩士のための墓地で、水戸の学問を牽引した藤田幽谷・東湖父子や、格さんのモデル・安積澹泊をはじめ、「安政の大獄」や「桜田門外の変」で亡くなった人々も多数葬られている。


(右)「桜田門外の変」で井伊大老暗殺の現場で指揮を執った関鉄之介もここに眠る。
 

●回天神社
「安政の大獄」「桜田門外の変」から「天狗党の乱」など明治維新までに斃れた水戸の改革派殉難志士の御霊・1785柱を鎮める。

●回天館
尊皇攘夷を訴え、藤田東湖の四男・小四郎を中心に筑波山で挙兵した水戸の改革派・激派=天狗党は、保守門閥派=諸生党との戦いに敗れ、武田耕雲斎(斉昭のもと藩政に参与した)を中心とする改革派・鎮派と合流し、一橋慶喜を頼みとして京を目指したが、彼らの行動は慶喜に認められず失意のうちに敦賀で投降。このとき耕雲斎や小四郎が処刑されるまでの間、幕府軍によって監禁されたニシン倉の1つを移築したもの。

●祇園寺
(上)儒教に重きを置く光圀も、決して仏教を粗末に扱ったわけではない。ここ祇園寺は、光圀が明からの帰化僧・心越禅師を招いて開基した曹洞宗寺院。ここには諸生党の水戸藩重臣が多数眠る。

(下)境内には幕末の諸生党の殉難者を弔う碑が建つ。

TOP    BACK

水戸黄門神社

寛永5年(1628)、水戸藩祖・徳川頼房の第三子として生まれた光圀。当時頼房に正妻はおらず、母は奥付きの老女の娘であった。懐妊がわかったとき側室がそれに不快を示したため、頼房は堕胎を命じたという。ところが家老・三木之次夫妻は、密かに自邸で光圀を出産させた。光圀誕生の地として、その三木邸のあった付近に現在は水戸黄門神社が祀られる。ちなみに、水戸藩主を務めた11人のうち水戸で生まれたのは光圀だけである。

TOP    BACK

備前堀

(右上)徳川頼房時代の城下町整備・拡張の遺構。千波湖並びに桜川の治水と利水を目的に、伊奈備前守忠次に命じて掘らせた用水。現在では、水戸の美しい都市景観の1つとなっている。写真中央は伊奈備前守忠次像。



(右下)備前堀に架かる橋の1つ銷魂橋が、江戸街道の起点(江戸からすると水戸街道の終点)であった。江戸定府が定められている水戸藩では、江戸藩邸に出仕する藩士は郷里、親族とも今生の別れになるのかと、この橋のたもとで魂が溶けるほど涙を流したとのエピソードからその名がつけられたという。

TOP    BACK

吉田神社

社伝によれば、日本武尊を祭神とし5世紀の末に創建という常陸国三の宮。代々水戸藩主の尊崇を受けと伝えられる。鎮まる場所は銷魂橋から数百メートルほど江戸に向かったところにある高台で、そこはちょうど水戸城の向かいにも相当するので、寺町の形成されていない水戸において、城下に出入りする人々の監視や防衛上重要な意味を持ったのではないかとも考えられる。

TOP    BACK

東照宮

水戸藩祖・徳川頼房が父・家康の霊を祀るために元和7年(1621)創建。現在は頼房も合祀されている。街の商店街のなかにこぢんまりと座す様は、その威厳とは裏腹に親しみやすさを感じる。

TOP    BACK

水戸八幡宮

京都石清水八幡宮の分霊を勧請、もとは大田郷(現・常陸太田市)の鎮守として崇敬されていた神社であったが、戦国時代末期に常陸太田から水戸に本拠を移した佐竹義宣が、その際ともに八幡宮も水戸に遷座した。水戸にあって空襲を免れた本殿は佐竹氏時代の貴重な現存遺構で、義宣ゆかりの社宝も多数有する。


マップ&水戸城データ    Ⅰ 城郭の見どころ    Ⅱ 町の見どころ①    Ⅲ 町角情報