岐阜―天下統一の野望に燃える信長が本拠とした城下町

Ⅱ 町の見どころ

信長ゆかりの寺院   長良川水運の要衝として栄えた城下   鵜飼   加納   斎藤道三ゆかりの地

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信長ゆかりの寺院

●崇福寺

臨済宗妙心寺派寺院。岐阜に入った織田信長が菩提所として保護をした。本堂の裏にある「織田信長父子廟」は、本能寺の変で討たれた信長と息子の信忠の遺品を、信長の側室・お鍋の方が当地に送り、寺内に位牌を安置させたことによる。本堂の天井に張られた血痕が付いた板は、慶長5年(1600)に東軍に攻められ落城した岐阜城の床板で、その時戦死した将兵の菩提を弔う。なお、武田勝頼を救おうとしたために織田信忠に甲斐国・恵林寺で焼き殺されたとき、「心頭を滅却すれば火も自ずから凉し」と唱えたことで知られる快川国師は、信長が美濃を支配する以前に当寺の三世住職を務めていた。

左の写真から、
本堂の裏に建つ廟所・位牌型墓石、位牌堂、本堂に張られた血天井。

本堂 この周りには、商業ビルが建ち並ぶ。

●円徳寺

市の繁華街の中に位置する、浄土真宗本願寺派の末寺。信長時代、上加納村長旗(現在の場所から300m南東)にあった法泉寺常泉坊がこの寺の前身といわれる。永禄10年(1567)、岐阜に入った織田信長が、この門前に「楽市楽座」の制札を掲げたことで知られ、信長が寄進した梵鐘などの寺宝が残る。境内に安置された織田塚は、天文16年(1547)、信長の父の信秀が井ノ口を攻めた際に道三に大敗して出た5,000人ともいわれる織田方の戦死者を弔うために法泉寺内に築かれたもので、寺の移転とともに当地に移された。また、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城落城の折、城主・織田秀信が剃髪し仏門に入ったのも当寺であった。

(上)境内の片隅に佇む織田塚。
(右)永禄7年(1564)の銘が入った信長寄進の梵鐘。

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長良川水運の要衝として
栄えた城下

●川原町界隈
長良橋南詰の鵜飼観覧船のりばから西へ続く通称・川原町は、昔、長良川の水運を利用した川港として多くの商家が立ち並び賑わった地域で、格子戸のある古い街並みが今も往時の風情を留める。伝統工芸品を製造販売する店や老舗和菓子店、また町屋を利用した飲食店などが散策にレトロな雰囲気を添える。

●川役所跡
近世、長良川の上流から下る材木筏や船荷を管理し役銀を徴収した川役所には尾張藩の手代2人が常駐、その下には付問屋が置かれ代々西川家が勤めた。現在、その遺構はなく、跡地を示す表示板が残るのみ。

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鵜飼

岐阜の夏を代表する風物詩。この古典的漁法は、約1300年前から行われていたといわれており、現在岐阜市では宮内庁式部職にある6人の鵜匠によって世襲制でこの伝統が受け継がれている。鵜匠の風折烏帽子に紺の漁服、腰蓑という装束は、かつて鵜飼が宮中行事であった頃の名残を留める。煌々と篝火を灯し漆黒の川面を下る鵜舟に乗った鵜匠が、華麗な手綱さばきで鵜を操り鮎を捕らえさるこの光景は、まさに幻想的で優雅な王朝絵巻。この鵜飼は単に漁法の一つとしてだけでなく、時の貴人たちに観賞するものとして尊ばれてきたという歴史ももち、織田信長も賞賛したという。ちなみに「鵜匠」という称号は信長が与えたと伝えられている。また、元和元年(1615)、徳川家康は大坂冬の陣からの帰途岐阜で鵜飼を見物、賞味した鮎を大いにめでたことから、以来鵜飼は尾張徳川家と幕府の保護を受け、鮎の熟れ鮨は将軍家への献上品となった。

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加納

JR岐阜駅の南側に広がる加納の町。室町時代後半には、守護・土岐氏のもと絶大な力を振るった守護代・斎藤氏の居城がこの地に置かれていた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利し大坂での戦後処理を終えた帰途、美濃に入った徳川家康は、岐阜城を廃城として、その斎藤氏の居城跡地に新たに城を築き、娘婿の奥平信昌を入部させることとした。これは加納を、天下分け目の戦いに敗れたとはいえ依然油断がならない豊臣氏をはじめとする西国の諸大名に対する防衛拠点とすることを意図していた。大坂夏の陣以降、西国の驚異は除かれ防衛拠点として意味は薄らいだが、後に加納は中山道の宿駅ともなり、城下町と宿場の双方の性格を併せ持つ町として発展した。明治維新後も和傘の町、文教の町と、隣接する岐阜市とは異なった性格を誇ってきたが、昭和15年(1940)、岐阜市と合併、岐阜市加納町となった。

●加納城址
東側に凸型に飛び出した外枡形の形状を示す石垣が残る。現在、本丸内は芝生が敷かれ市民の憩いの場となっている。

●大手門跡
現在は石碑が建つのみだが、この交差点を数百メートル進むと本丸北の厩曲輪跡に出る。

●本陣跡
14代将軍・徳川家茂との結婚のため、江戸に向かった皇女・和宮が宿泊した場所として知られる。

●中山道と御鮨街道
(右)江戸時代に岐阜と名古屋・熱田方面を結んだ、岐阜街道あるいは尾張街道と呼ばれた街道は、尾張藩が将軍家への献上品として岐阜で作った鮎の熟れ鮨を運ぶ道として「御鮨街道」とも称された。加納の宿場内では、東西に走る中山道と南北に抜ける御鮨街道が一部重なり、交差していた。

●脇本陣跡
(左)本陣跡同様に現在は普通の民家となっている。

斎藤道三ゆかりの地

父・新左衛門尉との2代にわたる美濃国盗りの物語で知られる、戦国の世の下克上を象徴する戦国大名。道三登場以前の美濃は、室町時代当初より当地を治めてきた守護・土岐氏をも凌ぐ権力を誇った守護代の斎藤妙椿・妙純の全盛時代であったが、妙純の死後、絶大な権力者不在の時代を迎えていた。京都の妙覚寺から美濃にやってきた新左衛門尉は、斎藤家の家臣として台頭著しい長井家に仕え、次第に頭角を現し長井新左衛門尉と称するようになる。そして息子・長井規秀(後の道三)が長井家の当主を殺害、そして長井家に続き斎藤家をも乗っ取り斎藤利政を名乗る。さらに守護の土岐氏を放逐し、美濃の実権を握るに至ったと伝えられる。天文23年(1554)、利政は家督を息子・義龍へ譲り、常在寺で剃髪、道三と称する。しかし、しばらくのうちに義龍と義絶、弘治2年(1556)、義龍軍と戦い長良川河畔で敗死した。

●常在寺
日蓮宗、京都妙覚寺の末寺で、斎藤妙椿により建立された。新左衛門尉、道三の国盗りの拠点となった寺院で道三以下3代の菩提寺。道三が剃髪したのも当寺で、また、道三の四男・日饒、五男・日覚は第5世、6世の住職を務めた。

●道三塚
弘治2年(1556)、息子・義龍と戦い敗死した道三を埋葬したとされる場所。度重なる長良川の氾濫や長良川の流路変更に伴い、現在は元の場所から多少移動している。今は周囲の建物でこの場所から岐阜城を望むことはできないが、当時は長良川をはさみ岐阜城を間近に仰ぎ見る場所であった。この場所で最期を迎えた道三の思いが忍ばれる。


マップ&岐阜城データ    Ⅰ 城郭の見どころ    Ⅲ 町角情報