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編集者ひとくちコラム
歴史群像シリーズ特別編集『【決定版】図説 摩の群像』

摩の群像こぼれ話


↑桑名市の海蔵寺にある平田靭負の墓

■この本を作るためにあった今までの休暇

 ここ数年休みを利用して、様々な城や史跡を巡っています。鎌倉、京都、鳥羽街道や伏見、大阪城と天保山、鞆ノ浦、小倉城、彦根城に生麦…。と訪問地を列記してみるとまるでこの本を作るために行ったような…。その割には肝心の鹿児島にはまだ足を踏み入れていません。今年の夏休みは「鹿児島詣で」ですかね。
 

■ 語り継がれる薩摩隼人の偉業

 宝暦の治水で、多くの薩摩の人々が犠牲となりました。その治水工事の行われた地元では、犠牲になった薩摩の人々を今でも「義士」と呼び、平田靱負を「平田靱負公」と呼んでいて、神様として祀っている所もあります。それだけ、木曾川流域の人々は宝暦の治水まで水害でひどく苦労してきたのだなあと改めて思い、その歴史が今でも語り継がれていることに感心しました。

(文=編集長T)

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歴史群像シリーズ『戦国の山城』

第14回「全国山城サミット」三原大会



 山城の保存整備と、山城を活かした地域の活性化を目指す「全国山城サミット」の第14回三原大会は10月13・14の両日、参加自治体17と多数の一般参加者(13日300人・14日310人)を迎えて盛大に開催された。今回のテーマは「地域に根ざした山城の保存と活用」。13日は記念の催しとして新高山城跡見学会が開かれ、鎧甲冑を身に着けた地元有志や三原市職員らの先導で、標高197mの新高山に巧みに縄張された城跡巡りを堪能した。  ホールにおいては、13日は本中眞氏による記念講演(「歴史遺産を現代に活かし、次世代へと伝えるために…」)や各地の自治体による山城紹介が行われた。14日には三浦正幸氏と岸田裕之氏による基調講演(「山城の歴史と構造」「小早川隆景の役割と動向」)が行われ、貴重な文化財である山城の魅力や、これからの活用について熱い語りかけが続いた。  なお来年の第15回大会は山形県西村山郡大江町(左沢楯山城跡)において開催される。

(文=編集部)

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[歴史群像]太平洋戦史シリーズ60号『本土決戦』

本土決戦余話

■日本陸軍の予測

 日本陸軍は本土決戦において、米軍の上陸場所と時期を正確に予測していたといわれる。しかしそれは事実なのであろうか。『本土決戦』の原稿執筆のなかで、そうした疑問が頭をもたげてきた。結論を先に述べてしまうと、日本陸軍の情報見積もりは、巷間伝わるほど正確ではなかったのである。
 ここでは、公刊戦史とされる『戦史叢書』のうち、昭和20年の高等統帥を記述した『大本営陸軍部〈10〉』を主な資料として本土決戦期の日本陸軍がどのように米軍の侵攻時期と場所を予測していたかを述べてみたい。

■部隊配備の実相

米軍の上陸が予測された、九州南部の志布志湾で陣地構築を行う日本軍。

 昭和20年1月19日に上奏された陸海軍合意の米軍の企図判断の要旨は次のようなものであった。
 まず主作戦線として
1,フィリピンから東シナ海周辺地域へむかうもの
2,中部太平洋から小笠原にむかうもの
3,北東方面から北海道にむかうもの
 このうち1がもっとも可能性が高いとしていた。またその時期は、1~2月に小笠原、2~3月に東シナ海、3~4月に台湾・南西諸島、4~5月に上海。そして本土へは秋以降としているものの、逐次の躍進を省略して一挙に本土に来寇する可能性もある、としている。
 2月7日、来るべき本土決戦のために防衛総司令官・方面軍司令官会同が開かれ、参謀総長、第1(作戦)部長の口演があった。ここで宮崎周一作戦部長は、米軍の本土来寇は8月から9月にかけてと述べている。
 2月22日の第44回最高戦争指導会議の情勢判断や、「本土決戦完遂基本要綱」決定のために同日から26日までの間に開かれた参謀本部と陸軍省の合同審議の席上でも、先の口演をうけたように、米軍の侵攻を8~9月以降としている。この省部合同審議で注目したいのは宮崎作戦部長の発言である。彼は米軍上陸地域を「敵の侵攻方向は戦局の推移に伴い修正する必要があるが、関東・九州・東海道の順と概定できる」としているのだ。
 4月27日から5月1日まで、西日本を担当する第2総軍で兵棋演習が開催された。ここでは侵攻の可能性が最も高い地域を南九州としながらも、四国南部(太平洋に面し、飛行場適地も多い)も公算が大きいとし、さらにその時期を最悪で6月末以降とする。
 一方、東日本を守備する第1総軍では、5月7日に策定された「総軍作戦要綱」で、決戦正面を鹿島灘沿岸、九十九里、相模湾としている。
 宮崎作戦部長は、国武輝人参謀(中佐)を帯同して、5月17日から九州担当の第16方面軍に出張する。宮崎作戦部長は、ここでようやく、まず最初に九州に米軍が侵攻するとした。しかしその時期は、南九州6月上旬以降、北九州7月以降と、きわめて切迫した判断をしている。
 こうした事情をうけてか、かねてから戦備の遅れていた九州に対し、関東の戦備を一時犠牲にする予定で、緊急輸送作戦がはじまるのであるが、それはあまりにも準備不足のまま行われたため、九州各地に軍需品の滞貨の山をつくったのみならず、貴重な輸送用石炭を浪費してしまった。
 6月8日の御前会議では、河辺虎四郎参謀次長(出張中の梅津美治郎総長の代理)が「今後ノ作戦二関スル所見」を述べたが、この中での情勢判断は、7,8月頃九州に、初秋以降関東に来攻というものであった。
 さらに参謀本部第2部(情報部)は7月1日付で「昭和二十一年春ころを目的とする情勢判断」(『茅ヶ崎市史 現代2』に付表以外全文収録)を作製したが、同書は米軍が侵攻しそうな場所を併記しているのみであり、また中国沿岸作戦の可能性を重視している。このため作戦課からの批判があったとされる。興味深いのが軍政機構である陸軍省の軍事課が同時期に作製したもので、これは「一 本年秋決戦兵力ヲ以テ九州、四国、済州島ニ上陸 二 関東地方は来年二月頃上陸」と比較的正確である。

■通説に対する疑問

 さて、このように書くと読者諸兄は、終戦時の部隊配備を見るかぎり関東、九州の防備が優先されていたではないかと疑問に思われるかもしれない。しかし関東と九州(そして東海)が重要ということは、作戦・戦略の常識の範疇であり、それだけでは具体的な部隊配備と作戦立案は不可能である。
 実際に南九州が重点的に防備されはじめたのは、先述したように5月になってからで、例えば第1次動員までの部隊配備状況を上陸想定海岸で見ると、師団数は、鹿島灘=2個、九十九里=2個、相模湾=2個、四国太平洋岸=2個、北九州=1個、宮崎海岸=2個、志布志湾=1個、吹上浜=1個と、決して重点を定めた配備でないことが理解できる(機動打撃任務の師団を除く)。これは最終的な部隊配備でもそうで、戦線1kmあたりの兵力密度は、相模湾の0.8個大隊に対し、吹上浜では0.4個、志布志、宮崎海岸では0.6個。ちなみに最大なのが高知正面の0.9個となる。
 たしかに、参謀本部第2部第6(米英)課は、米軍の侵攻時期、上陸海岸、使用兵力をきわめて正確に予測していた(ちなみに、米軍の行動を的確に予測したことから“マッカーサー参謀”の異名を持つ堀栄三少佐も同課課員である)。だが、それは第6課のみのものであり、全軍の作戦の基盤になるどころか、その上級組織である第2部にさえ共用されてないのだ。さらにいえば、予測が正確か否かは、その時点では誰も保証できないのである。情報分析の本質的な難しさである。
 つまり、日本陸軍が米軍の侵攻を正確に予測していたというのは、結果論か伝説に過ぎなかったのだ。おそらくその背景にあるのは「零戦伝説」や「戦艦大和伝説」と同じ、未曾有の敗戦故に何らかの慰めが必要とされた、戦後日本のある種の風潮と同根のものなのであろう。
 ムック太平洋戦史シリーズの60冊目となった『本土決戦』は、そうした風潮を排すことを製作の基本としている。そのなかで生まれた通説に対する疑問を、とりあえず簡単にまとめてみた。すでに本誌をご購入された方は、本稿を付録として読んでいただければ幸いである。

●1kmあたりの兵力密度
地 域 全正面幅 歩兵大隊 機関銃 歩兵砲 噴進砲・臼砲  火 砲
南九州東正面 80km 0.6個 6挺 2門 1.6門 2.5門
南九州西正面 70km 0.4個 3挺 1門 1.2門 1.4門
北九州正面 100km 0.3個 2.9挺 2.9門 1.2門 0.8門
高知正面 30km 0.9個 11.5挺 3.3門 5門 4門
済州島正面 100km 0.3個 3挺 0.9門 1門 1.3門
遠州灘正面 150km 0.2個 0.2挺 1門 0.8門 0.9門
鹿島灘正面 70km 0.6個 5挺 2.4門 0.9門 1.9門
九十九里正面 100km 0.4個 4.5挺 2門 0.6門 1.5門
相模湾正面 40km 0.8個 9挺 2.5門 1.5門 2門
表は、決号作戦における1kmあたりの兵力および火力密度を示したもの。

(文=樋口隆晴)