制作こぼれ話

次世代の生物化学兵器(歴史群像155号)

アメリカのコロラド州のプエブロ化学兵器貯蔵施設に貯蔵されていたマスタードガスが充填された155㎜化学砲弾。

2003年8月、イラク戦争で戦闘が終了した後に行われたウクライナ軍の除染訓練。

 現在発売中の本誌155号では、化学兵器の概略史を書かせていただきました。化学兵器が有害な物質(=毒物)だとすれば、その歴史を追うためには紀元前にまでさかのぼらなければなりません。ですが、本誌ではその長い歴史を解りやすく6ページでまとめなければならず、省いた部分が多々ありありました。特に冷戦が終わってからの、今日の化学兵器については全く言及していませんし、生物兵器に分類されている「毒素」についても取り上げていません。
 そのためここでは、現在注目されている新型の化学兵器や、生物化学兵器の新しい傾向について述べてみたいと思います。

ロシアの新しい神経剤──ノビチョク剤

 昨年3月12日、元ロシア連邦軍参謀本部情報総局の大佐で、イギリスのスパイだったセルゲイ・スクリパリが、亡命先のイギリス・ソールズベリーで殺害されました。スクリパリはベンチに娘と座っていたところを、ロシアの工作員の化学攻撃によって死亡したとイギリス政府は発表しましたが、この時使用された化学剤が、ロシアの神経剤「ノビチョク剤」だったとされています。
「ノビチョク(новичок)」とはロシア語で「新参者」「新入り」「新人」という意味で、その名の通り、この化学兵器はロシアが開発した最新の神経剤です。厳密には、その開発はソ連時代の1980年代前後にまでさかのぼり、「フォリアント」と呼ばれる化学兵器開発計画の一環として生まれました。現在5種類のノビチョク剤があるといわれています。
 ノビチョク剤は、保管時は2つの無害な前駆物質(ある化学物質が生成される前の段階の物質)に分けられており、使用する際にはこれら前駆物質を混ぜることで生成されます(こうして作られる化学兵器を「バイナリー兵器」といいます)。その毒性は金正男暗殺でも使われた猛毒の神経剤VXの5~8倍といわれており、おそらく現時点で最強の毒性を持った神経剤といってよいでしょう。

医薬品と非致死性化学兵器

 非致死性化学兵器といえば、吐き気を催させる嘔吐剤や、催涙剤、くしゃみ剤など、気管支や眼の粘膜などへの有害な刺激によって人を行動不能にするものが主でした。しかし、2002年にチェチェン共和国の独立武装勢力が起こしたモスクワ劇場占拠事件の時、ロシア軍特殊部隊が使用した非致死性の無力化剤「KOLOKOL-1」(KOLOKOLは、ロシア語綴りで“колокол”。「鐘」「ベル」の意)は、「カルフェンタニル」と「レミフェンタニル」という成分からなっていました。カルフェンタニルは人の医療や獣医領域で麻酔剤や鎮痛剤として用いられ、一方のレミフェンタニルも手術などの全身麻酔の時に使用される鎮痛剤です。
 カルフェンタニルとレミフェンタニルは「オピオイド」と呼ばれる薬で、鎮痛薬として用いられる医療用の合成麻薬です。このほかのオピオイドには、主に激しいガンの痛みを鎮めるフェンタニルやモルヒネのほか、トラマドール、コデインなどがあり、病気になった私たちの苦痛を取り除いてくれますが、ロシア軍はいわばその仲間であるカルフェンタニルとレミフェンタニルを危険な化学兵器として使用したわけです。
 両剤とも過剰に投与すると、副作用として昏睡や呼吸の抑制が起こるため、ふだんから医師は十分な配慮をして処方しています。実際、モスクワ劇場占拠事件ではKOLOKOL-1の使用によって武装勢力を弱らせて鎮圧できましたが、人質922人のうち、129人が中毒死しました。いまや化学兵器、特に非致死性化学兵器の分野では身体の局所への刺激ではなく神経や精神に作用するタイプが登場し、そして我々の健康を守ってくれる医薬品の成分も用いられるようになっています。

新しい生物毒素兵器

 私たちはふだん気にもしていませんが、人間の身体を作っているおのおのの組織は多くの調節機能を働かせて身体のバランスを取っています。例えば、自動車が自分に向かって突然突っ込んでくるのを認識した途端、心臓の鼓動は一瞬にして速くなり、全身から汗が吹き出します。これはすぐに動けるように、人体が自動的に調節して臨戦態勢になったわけで、それをもたらしたのが「ノルアドレナリン」という物質です。体内で作られたノルアドレナリンによって心拍数が増加するわけです。
 このように、人体の機能を調節している物質を総称して「調節因子」といいますが、こうした調節因子の働きに着目して開発される薬のことを「バイオ調節剤」といいます。例えば血圧を下げるタンパク質を調節因子として医療用に作りだせば、合成化学物質ではない、人体を制御する物質として安全に血圧を下げることも可能となります。
 しかしバイオ調節剤の開発技術を流用すれば、逆に人体のバランスを崩して悪い方向に調節することも理論上可能となるので、「暗殺のためのバイオ調整剤」が開発されることが現在懸念されています。
 近年高まっている健康志向の影響からアミノ酸を含んだ食品が注目されていますが、アミノ酸には栄養として摂取しなければならないトリプトファンやロイシンといった必須アミノ酸をはじめとして、さまざまな種類があります。これらアミノ酸という分子が膨大な数、ネックレスのように数珠つなぎになったものがタンパク質です。そしてタンパク質が切断されて、アミノ酸の数が数個~50個以下となったものを「ペプチド」といいます。ペプチドにはいくつも種類があり、おのおの人体の調節因子としてさまざまな働きをしています。例えば、血液の水分量が増えすぎて心臓に負担がかかると、「ナトリウム利尿ペプチド」と呼ばれる調節因子が自動的に分泌され、これによって水分を尿として排泄させることで血液の水分量を減らし、心臓への負担を軽くします。こうした調節因子としてのペプチドが、暗殺用として用いられる可能性が指摘されています。
 旧ソ連の生物兵器開発の重鎮で、のちにアメリカへ亡命し旧ソ連の生物兵器開発の実態を明らかにしたカナジャン・アリベコフ(亡命後はケン・アリベックと改名)によると、ソ連では1980年代末~90年代に、遺伝子工学によって神経細胞を破壊するペプチド──調節ペプチドを作ることが可能という報告がもたらされていたといいます。この調節ペプチドは新型の生物毒素を開発するソ連の「ボンファイアー」計画から生まれたものです。
 生物毒素などの毒物では、遺体を検死することで毒物が投与されていたことがすぐに判明してしまいますが、体内に存在するペプチドを用いて体に備わっている制御機能を阻害し、例えば心臓への負荷を高める方向に持っていけば自然の心臓発作に見せかけて暗殺することも可能となり、少なくとも検死で既存の毒物は検出されないので暗殺が発覚しにくくなります。また、毒物を中和する解毒剤という今までの概念が通用しないので、現時点では決定的な対処方法がありません。
 人を殺傷するために人工的に作られた物質とはいえ、人体にある分子構造物であり、明確に生物毒素とはいえないペプチドは、はたして生物兵器なのか、それともやはり人工的に作られた分子構造物なのだから化学兵器なのか? いま、こうした生物兵器とも化学兵器とも明確に分類できない「ミッド・スペクトル・エージェント(中間領域の生物化学剤)」は、国際条約で規制することが難しくなることから、大きな懸念材料となっています。

「日曜大工」で生物兵器を作れてしまう?

 専門業者ではない素人が物を作ったり、壊れたものを直したりすることをDIYといい、いまや日曜大工の代名詞としてブームになっています。テレビ番組でも、腕自慢のタレントがゲストの家を手作りでリフォームする番組などが人気となっています。
 これは何も日曜大工の分野だけではなく、生物学の領域でも一つのムーブメントとなっています。これは「DIYバイオ」または「DIY生物学」と呼ばれており、生物学の研究者や企業の技術者などの専門家の監督の下で、正規の教育や訓練を受けたことがない市井の研究者がバイオテクノロジーを中心とした研究を行う運動です。DIYバイオは地域の教育活動の推進や個人の趣味の充実、企業とのタイアップによる民間の人々の成果をビジネスに生かすなど、さまざまな役割が期待されています。
 このように、DIYバイオは、一般社会への生命科学への理解を深めたり、科学的思考を向上させたり、新たなアイディアを生み出したりするなど、多くの利点がありますが、国家の安全保障担当者の中には、新しい生物兵器が国家の統制や国際条約の規制の外で生み出される危険性を指摘する人々もいます。
 DIYバイオというわけではありませんが、アメリカの大学では、何年も前から遺伝子工学を専攻する学生たちが簡易型の遺伝子組み換えキットを用いて学んでいます。もちろん簡易型なので本格的な研究用というわけではないのでしょうが、「遺伝子工学」とは複雑で大掛かりなものという私たちのイメージに反して、少なくとも天文学や原子物理学よりは大がかりなものではないのです。DIYバイオは決して悪いものではないのですが、安全保障の観点からはその動向に注目する必要があるといえるかもしれません。

製薬技術の流用

 医薬品で病気を治すためには、該当する医薬品の成分を人体に吸収させなければなりませんが、人体へ吸収させる部位は皮膚および粘膜や呼吸器、消化管、体液を介してなど多岐にわたります。製薬業界では、医薬品の効能・効果や成分の性質を見きわめて、いかに有効に患部へ薬の主成分を送るか日々努力しています。
 例えば、下痢を直す薬は皮膚に塗る軟膏にしても意味はなく、内服薬にするのが一般的ですが、その際は胃を通過するので、胃酸で分解されないように工夫しなければなりません。そもそも多くの薬は血液の流れに乗って全身を回り、患部に達して薬効を発揮するので、毒物や身体の老廃物、そして薬といった、体にとっての異物を分解する肝臓という「関所」を無事に通り抜けなければなりません。薬物を滞りなく患部に送るこうしたしくみを「薬物送達システム(ドラッグ・デリバリー・システム:DDS)」といいますが、生物化学兵器も殺傷効果を発揮するためには効果的に吸収されなければならないので、その開発にDDS技術が応用されることがあります。
 ひとつの例として、例えばマイクロカプセル化があります。薬効のある成分を、生物的に分解可能なポリマーによって作られたマイクロカプセルに収納して吸収させ、患部で溶解させることで病巣を直すという考え方です。これを生物化学兵器に応用することで、効果的に殺傷能力を発揮できるようになるのではないかと考えられています。
 特に生物兵器として用いられる病原微生物の場合、生き物である微生物を外気や紫外線、人体の免疫機能から保護するという点で有効と考えられています。

 まだアメリカが攻撃的生物戦の研究を行っていた1950年代、当時生物戦の中心地だったフォート・デトリックの生物兵器担当の将官は、こう言ったといいます。

「攻撃的生物戦とは、さかさまの公衆衛生である」

 公衆衛生は多くの人々の健康を守るために、きれいな飲み水を安定供給したり、汚物を処理したり、人々の生活空間を確保したり、さまざまな方策を立てて感染症の発生や拡大を抑えます。では、多くの人々に感染症を流行させる攻撃的生物戦を成功させるにはどうすればよいのかというと、「公衆衛生と逆の考え方をすればよい」と言っているのです。
 近年、遺伝子工学や医学、薬学が発展してきたことで、先にも述べたバイオ調節剤や、遺伝子疾患用の治療薬、医薬品を効果的に患部に送って病気を治すシステムが生まれ、私たちの命が救われる可能性が広がりました。しかしその技術を応用することで、新たな生物化学兵器が生まれるようになってきたことも否めません。個々人の遺伝子疾患を治療する薬の開発技術を用いて、特定の人物のみを殺傷する毒物、さしずめ「オーダーメイド・ポイズン」が開発される可能性を指摘する声もあります。
 コインに表裏があるように、私たちを幸せにする生命科学の裏側には、恐ろしい生物化学兵器が刻み込まれていることを、私たちは常に、心に留めておくべきでしょう。

(文/小林直樹)

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