制作こぼれ話

復元された諏訪原城の“薬医門”は本当にあった(歴史群像146号)

 『歴史群像』146号18ページ掲載、戦国の城「諏訪原城/牧野城」の取材に同行しました城マニア&観光ライターのいなもとかおりです。発掘調査を担当した島田市教育委員会文化課の萩原佳保里さんにお話をうかがい、発掘調査で判明したことをレポートいたします。

諏訪原城の縄張図。丸馬出がお見事!
(写真提供:島田市教育委員会)

奥にポツンと寂しそうな薬医門。なぜ、ここに薬医門があったとわかったのだろう?

諏訪原城の薬医門とは?

 城内から富士山が見える、静岡県島田市にある諏訪原城。城の南西部、諏訪原城のシンボルともいえる二の曲輪中馬出から崖の方向を見ると、ポツンと一棟の薬医門が建っています。土の城として知られるこの城に、門が復元されたのは平成29年3月のこと。
 「薬医門」とは、本柱と控え柱に切妻屋根を乗せた門で、公家・武家などの屋敷の正門として使用される格式の高い門です。門が位置する北馬出は、大きな中馬出に寄り添うようにつけられた重ね馬出。通常、曲輪の入口にあるべき虎口が、諏訪原城では曲輪中央に薬医門が位置するため、違和感があります。なぜ、ここに薬医門だけが誕生したのでしょうか。

発掘調査でわかったこと

 平成16年~27年まで、島田市では諏訪原城を整備するための発掘調査を実施してきました。ひと昔前は武田の城だと称されていた諏訪原城が、徳川による改修だったと判明したことは有名な話です。私たちが知っているのは、その結論だけ。答えが出るまでの過程は、どうだったのでしょうか。
 
 まず、発掘調査の結果、判明したことは3つのことでした。
・地中に焼土の層があり、焼土を境に武田氏と徳川氏の2層の時代が存在したこと
・城内には徳川氏によって改修されているか所と、されていないか所があること
・薬医門の痕跡である4つの礎石が見つかったこと
発掘によって多く判明していますが、大事なことはこの3点です。

薬医門に入ったあと、仕切りや土塁の裏を通って二の曲輪中馬出へと向かう。
(写真提供:島田市教育委員会)

 現在みる諏訪原城は改修された後の徳川時代の諏訪原城(※徳川改修後は「牧野城」に改名しますが、このレポートでは諏訪原城で統一)ですが、まず本曲輪付近では発掘調査の結果、徳川時代の生活層があり、そのうえに下の層には武田時代の諏訪原城も眠っていることがわかりました。さらに、二の曲輪の東馬出・東外馬出付近でも2つの時代の痕跡が見つかり、加えて鉄砲の玉が計52点出土していることから、このエリアで実戦があったという証拠となりました。一方で、改修された痕跡のない部分も判明しました。二の曲輪内や大手馬出、中馬出の一帯は、一つの時代しか存在しておらず、武田時代の諏訪原城にはなかったのです。徳川は、武田の城だった諏訪原城をどのように改修していったのか? そして武田氏の諏訪原城は一体どのような縄張だったのか? ますます気になります。

 しかし、その答えを発掘調査のみによって解明することはできません。なぜならば、武田氏の諏訪原城を全て掘り起こすことは、表面にある徳川氏の諏訪原城の遺構を壊してしまうということになるからです。とくに、国指定史跡の城は、慎重に発掘を行い、試し掘りによっていくつの時代の生活層が出るか確認するくらいしかできないそうです。

島田市教育委員会・萩原さん(右端)に取材中の編集部取材班。武田氏時代の痕跡を探して縄張図に書き取る。


 私のイメージしていた発掘調査とは、「掘れば全てがわかってしまう」そんな安易なイメージでしたが、実際は異なるものだったのです。取材を通して知ったのは「発掘調査は破壊行為」だということ。そして、埋蔵された状態を知ることなく作業をするからこそ、予想していなかった可能性も出てくるということです。




発掘調査結果から判明した過去からのメッセージ

 調査を行うと、発掘前と同じ条件には二度と戻すことができなくなります。ゆえに、発掘調査を担当する専門家には正確な記録と検証を行う責任が問われるそうです。だからこそ、発掘チームには各分野のエキスパートが揃えられ、蓄積された情報から比較し、推測される可能性を組み立てていきます。次にご紹介するのは、SNSでもウワサになった薬医門の話。ここでポイントとなるのは、戦闘を優先される最前線の城に、即席の門ではなく格式高い薬医門が設置されたと、発掘調査によって判明したことです。

曲輪の中心に建つ薬医門。研究者が導き出したその答えを見ることができる。

二の曲輪北馬出の6つの礎石。
(提供:島田市教育委員会の画像に加筆)

 発掘の過程で、二の曲輪の北馬出で縦に3つ、横に2つ、計6つの礎石と思われる石が出土しました。場所は、馬出のほぼ中央。最初は門の礎石だとわからなかったそうです。過去の調査の事例と比較し、中央に並ぶ2つの石は「門渡り石(とわたりいし)」だと考えられ、4つの礎石から門の可能性が浮かんできました。次に考えられたのは、人の動線です。北馬出と中馬出をつなぐ長い土橋には、土塁の痕跡がありました。土塁は、礎石の位置からはじまり土橋へと続いていたため、塀や柵などの仕切り状のものがあったことがイメージできます。すると、門を入って、仕切りや土塁の裏を通り、中馬出の曲輪へと進む、そんな人の動きが見えてきます。つまり、礎石以外の遺構から逆算したことで、門があったという結論を導き出せたそうです。さらに、薬医門という形式は、礎石の大きさを検討材料に、建築学と考古学の観点から考察されました。

土橋。左側に土塁の痕跡が見られる。


▼一見、曲輪の真ん中というヘンな位置にある北馬出の薬医門。しかし、縄張り研究的な視点で城を観察すると、長い年月を経て低く小さくなった2つの土塁に囲まれているのがわかる。そこで発掘調査で土塁の基底部の幅を確認する。そして、これまでの研究の蓄積から土塁を復元してみると、薬医門は2つの土塁に挟まれて、城に入る導線がこの薬医門を通り、U字型を描くのがわかった。この結果、逆説的に「礎石のような石」が、実際に門の礎石であることも判明した。

 調査でわかったのは礎石という素材だけです。加えて、考古学による過去の調査データによる蓄積、そして、縄張研究者による城へ入る動線という視点があったからこそ、薬医門の存在が判明できたのですね。考古学、建築学、文献史学、縄張研究など各ジャンルのエキスパートによって結成された調査チーム「島田市諏訪原城跡整備委員会」が推理した諏訪原城の姿から、総合的な歴史の研究が進んでいく。この一連の作業が、話題となった「薬医門」へと続くプロセスだったのです。臨戦態勢のご時世に、なぜ格式高い薬医門が設置されたのか? それは『歴史群像』146号の戦国の城「諏訪原城/牧野城」(18ページ)をご覧ください。

発掘調査と歴史研究

 「発掘調査」とは、埋蔵文化財を適切に保護し、正しい歴史を後世に伝えていくための学術的な調査です。土の中に埋蔵された歴史をそのまま保存することも大切ですが、歴史の解明には結びつきません。研究に必要不可欠な情報を得るためにも発掘調査を実施し、過去からのメッセージを受け取ることは重要なことなのですね。
 また、発掘調査でわかることは、調査・研究による蓄積との比較です。発掘調査は万能ではないから全てを究明することはできませんが、各分野の研究者が力を合わせた検証こそ、調査対象となる史跡を高い精度で解訣する秘策なのだと感じました。発掘調査を実施する理由はなにか? それは未来の人たちに、先人達が築き守ってきた歴史を価値のあるものとして伝えていくためだと感じました。

地域の人に愛される史跡へ

 諏訪原城は2033年頃の整備完了に向けて整備を進めています。2019年には土塀や土塁も復元し、変貌を遂げる予定とのこと。城の復元については賛否両論ありますが、「見える化」することは文化財を活かす上では有効な観光振興の一環だと思います。未来の諏訪原城へと大きく前身させるかもしれない薬医門を、そして誰もが唸る縄張を誇る諏訪原城に、是非訪れてみてください。

(写真提供:島田市教育委員会)

時代背景のおさらい

 武田勝頼が諏訪原城を築いたのは天正元年(1573)のこと。対徳川家康を意識した城は駿河と遠江の境目に築かれ激戦の地となりました。武田方の高天神城へ物資を運ぶ補給路を守るためには死守したい城でしたが、徳川方の猛攻により落城。さらに徳川方は天正3~9年(1575~81)頃に諏訪原城を改修し、駿河侵攻の前線として位置づけた城です。
 「牧野城」へとリニューアルされた諏訪原城はどのような変貌を遂げたのか? この城が辿った運命は土の中に埋蔵され、発掘調査によって解明される日を待っていました。

(文/いなもとかおり)

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